先日冬季北京オリンピックの開会式が長すぎませんようにと書きましたけど。
北京の心配なんかしてる場合じゃなかった。
東京のことを、忘れていた。
でもとりあえず、東京五輪パラは、式典の時間を短くするそうな。
(↑そこ?)
萬斎氏、山崎氏、佐々木氏記者会見。
萬斎氏、水の飲み方が無駄にカッコいいな!
まるで酒でもあおってるようなヒジの張り具合!
下手にやると態度デカいとか思われがちなところをとっくに通り過ぎた貫禄に惚れる!
プロフェッショナルに筋の通った二人と軽妙洒脱の萬斎氏。
長時間にわたる質疑応答だったけど、三人が三様に知的かつ力みなく、見ていて気持ちがよかった。
萬斎氏ももちろんプロフェッショナルな人だと思うんだけども、私の中では、一つのことをひたすら究めたというより、ひとところにとどまらない人というイメージがある。
狂言という古巣はもちながら・・もっているがゆえに、良い意味で常に転がり続けて苔むさない。
萬斎氏の狂言は、若い頃はそうじゃなかったんだけども、近年は少し演劇っぽくて、旧来の狂言から見れば若干横道に逸れたようなところがあると思う。
でも私の知るかぎり、そこを批判する人はあまりいない・・・たぶん、長年基本は基本で全うしたうえで、常に好奇心をもって横道に逸れ続けてきたパイオニアの「見識」と「洒脱」が皆を認めさせているからだと、私は僭越ながら思ってる。
そして、まさにそこが買われたのだろうな、と感じる会見でありました。
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三人の(といっても主に萬斎氏)お話の中で、個人的に良いなと思ったこと(正確ではないと思うけどニュアンスで)
〇機知に富んだ
〇表面的な「日本的」でなく精神として内在する心
〇地球上の生き物や人間が歴史を背負って今現在にあるということ
〇必然のある演出
〇振れ幅
〇お国自慢でなく
〇すり足で後ろに進むとムーンウォーク
表面的な「日本的」でなくて精神として内在する心を見せたい、というのは、たぶん古典芸能とかそういったものをやっている人ほど、実感としてわかるんじゃないかなあ。
芸能ひとつとってもいろんなものがありすぎて、日本的なもの、なんて、はっきり見てわかる共通点はどこにもない気がするから。
萬斎氏もちらっと語っていたけど、それが生まれた時代によっても全く違うし、対象とした人物の身分によっても違う、どんな機会に用いられたかという場の違い、さらに流派だとかそういうものも数限りなくあって、レイヤーがものすごく入り組んでいる。
ただ、そういうものが、変化しながらも消え去らず、それぞれが時代時代に役割を見つけて共存し、小さな淘汰を繰り返しながら生き残ってきた、残されてきた、隠れキリシタンのオラショなんかもそうなんだけど、「変化しながらも残す」という行為や感情そのものが日本的なことなんじゃないかというのが、まあ、ここ20~30年で私の知る限りの日本論のキーかもしれないので。
そういうことがコンセプトに関わってくるんじゃないかなあ。
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すり足で後ろに歩くとムーンウォーク、というのは、まあ、言葉のアヤだと思うけど、なかなかぐっとくる言葉でありました。
たぶん、世代的なこともあるのかもしれないけども、日本というもの、日本という国、日本らしいということに、何か強烈に我慢ができなかった、物足りなかった、面白くなかった、そういう感情が、若い頃の萬斎氏にあったんじゃないかなあ、と思う。
たとえば、村上春樹は、我慢のできないこの日本と対峙することをあきらめて、感性をグローバルに逃がそうとした人じゃないかと勝手に思っている。
でも萬斎氏はそうじゃなく。
過去の日本人はこんなつまらん伝統文化だけで幸せに生きて来れたはずがない→日本の伝統というものの解釈自体が間違えてるのではないか、というような仮定の上に立って、伝統を解体しながら解釈しなおしたんじゃないか。
自分自身が本当に興味をもてるものと、一見興味の持てない「伝統」照らし合わせて、符合する感情や感覚を探して命を吹き込んできた人なんじゃないか、と私は思う。
勝手な憶測だし、語弊があるかもしれないけど、そういう試行錯誤を経て日本文化を咀嚼した人はけっこう多いんじゃないかと思うし、少なくとも私はそうだ。
そうやって戦後数十年・・もしくは明治維新から100数十年を経てやっと咀嚼された日本文化の解釈が、「にほんごであそぼ」のようなものには反映されていると思う。
うちの子もそうだけども、そういうものを子供の頃から受け取っている世代が、日本を最初から肯定的に自分のものとして受け止めるのを見ると、うらやましいなあと思う。
まあ、その恩恵を当然だと思う世の中になったらちょっと嫌だけど。
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萬斎氏の言葉で一番納得したのが「必然」という言葉。
古典芸能をやろう、という企画ありきじゃなくて、コンセプトやストーリーの中で必然的なことをしたい、と。
・・まあ、つまんない言い方をすれば、有機的に統合された演出、ということになるんでしょうが。
一般的にいえば、ショーとしてはごく当たり前のことだと思う。
でも「国を挙げて」みたいなことになると、その国が推す何かが脈絡もなくいきなりぶっこまれてきて「どうだ。すごいだろう」っていう前のめりなことになりがちで・・
オリンピックに限らずこの手のイベントの一番痛いパターンのような気がする。
(初めて開催する国やマイナーな地域は別として)
でも、その「痛い」事例の逆を行こうとして、美意識やコンセプトに寄りすぎて失敗した例が、あの悪評高い長野じゃないかと思う。
あの開会式、実はそんなに嫌いじゃないんだけども、改めて動画で見ても、「すごいだろう」感が皆無というか、謙虚で生真面目にすぎて、ツッコミたいところもツッコむ隙がない。
たとえば、「二月に屋外で土俵入り」というのは、平昌におけるトンガの旗手並みのインパクトのはずなんだが、くそマジメすぎて、そこに笑いや驚きを感じてもらおうというユーモアとサービス精神がない。
内容もコンセプトも明快なのに、おそらく本物感にこだわりすぎて、見せ方が足りなかったんだよな・・
そういうバランスを、萬斎氏は誰よりも心得てるんじゃないかな。
狂言という、エンタメとしては最小限にシンプルで狭くて地味でマイナーな世界(たぶん褒めてる)と、現代の多様で広い世界とのギャップを行き来してきたからこそ、双方を納得させてきたからこその、サービスと芸の絶妙な勘所をおさえてるんじゃないかと思う。
これが、たとえば歌舞伎のような、もともと華やかな大所帯にある人だったら、その立ち位置から出ることはあっても引くことはできないんじゃないかという気がちょっとする。
でも、萬斎氏には、その気になればゼロまで引くことができる自在さを感じる。
ここでちと余談だけど、狂言は単独で上演ができるんですよね。
一方、能を上演するときは、狂言を必ずつけなくてはいけないという、業界の内規がある。
当時は能の添え物的な存在で地位の低かった狂言を保護するためだったらしいんだけど、その身軽さが、かえって狂言人気を盛り上げている・・というのは25年前に私の師匠に聞いた話だけど、今も多分変わってないと思う。
囃子方も地謡も小道具も、ことによると衣装もいらない、最低2人でなんとかなる、極限まで削れるという身軽さ、逆にいえば、その極限のところから、場合によっては多くの観客に見せなければいけない、伝えなければいけないという振り幅は、狂言ならではなんじゃないかという気がする。
実際、現代劇やこういった場での萬斎氏は、何かをあえて抜いて、相手に解釈してもらう余白を残す、そのことによって対立をかわすような絶妙な押し引きがあると思う。
逆に狂言のときは、むしろ20パーセント増しくらいで、自身の解釈を混ぜ込んでくる。
その自在さ、演目と観客をつなぐギリギリのところを見極めて踏みとどまるセンス。
そこに期待したいなあと、この会見を見て思った。(上から)