全日本羽生氏欠場とか、いろいろありましたけど。
すべて、「カンチョー」でぶっとびました。
いやあ、グエンくん、よくぞ暴露してくれた(笑)
まあ、多少は盛ってるかもしれないけどさ。(爆)
初対面の中学生?にいきなりカンチョーぶちかますおバカな高校生、羽生、というものが、そう遠くない過去に存在した事実に思いをはせるだけで、今年も暖かく楽しく年を越せそうな気がする。
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ところで、2014年全日本の再放送を見たんですけど。
今更真顔で言っていいですか・・
このときの羽生氏(20)って、恐ろしく美しいですよね・・・
張り詰めていて、透き通るようで、影のあるひんやりとした凄みがあって。
もちろんそれ以前の演技にも「凄み」もあれば「影」もあったけど、まだどこか天然というか、不安定というか、ふわふわとはかないような感じがしてた。
この大会では、その美しさが「板についてる」っていうか内側におさまってるというか、誰にも取り去れない、ゆるぎない輝きを感じるんだな。
うまくいえないけど。
実をいうと、当時はこの演技をそれほどいいとは思ってなくて、GPFよりパワーが抑え気味だったことを、ちょっと残念に思っていた。
4Sの転倒もあったしね。
もちろん、あとになって病気や緊急手術のことがわかって「ええええっ」となったわけだけど・・
ほとんど見返すこともなく、今まであの美しさに気づかなかった・・
もったいないぞ。自分。
今見ると、ほんとうにぞくぞくする。
とくにオペラ座の冒頭の凄み。やばくないですか。
そしてステップの耽美さ。
GPFほどパワー全開でなはいけれど、外に向けた尖りがなく、ひたすら内面に向かって鋭さと狂気をじりじりとくすぶらせるようなところ・・・これは当時もすごく好きだったけど、今見るとなおさら際立って見える。
「バラ1」も、このシーズンの演技の中で、これが一番美しいかもしれないな・・。(衣装もいいんだよな・・)
それにしても、彼の全日本はほんとうに困難の連続だな。
この2014年シーズンのことを思えば、今季は欠場するという決断をしてくれただけでも少しはほっとしているのだけど。
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サワコの朝、というトーク番組でピアニストの清塚さんを見たんですけど。
冒頭で「春よこい」を弾いてましたっけね。
アルバム出したんでしたっけ。
ヘルシンキのはそのアルバムが音源なんでしょうかね。
うっかり買ってみますかね。1月に発表会で弾く予定の曲も入ってるし。(←言い訳)
この番組のトーク、すごくおもしろかった。
子供時代に、スパルタな母親に隠れて悪さをしたというのが傑作で。
練習をしているフリをして、こっそりゲーム音楽を混ぜてもぜんぜんバレなかったとか。
でも「どんなときも」でバレたとか。
隠れて遊んでいる姉に、母親が帰ってきたことを音で知らせたとか。
ネタとしても面白いんですけど、彼の音楽の原点がそこにあるんだろうな、っていうのがしのばれておもしろかった。
公に言葉にできないこと、言葉にしちゃったら詮無いこと、興ざめなことを、言葉の代わりに音楽で語る。
べつに「ドラクエ」でも「スーパーマリオ」でも「どんなときも」でも、素材はなんでもいいんだけど、それによって時代や感情や、もっと具体的な人生だとか経験だとかを伝えられたり、共有できたときに、音楽って楽しくなるじゃないですか。
多くの人は、小さい頃にはとにかく練習を積んで、ある程度大きくなってからやっと、その感覚を教わったり、気づいたりするのかなと思うんですけど。
彼は誰に教えられるでなく、「音楽本来の意味」を理解してたんだな、そこから出発してきたんだな、と思ったんですよね。
そして、「春よこい」って、そういう音楽の楽しみが詰まったプロだと思うんですよ。
夏にさんざん力説したから繰り返しになるけど、「音楽する」とか「セッション」とかいうことの生々しい本質をスケートで表現するという、いままで見たことのない、とんでもないパフォーマンスだったと思う。
それは羽生氏に音楽家的な音楽理解があるからできたことだと思ってた。
でもきっとそれだけじゃなくて、演奏の清塚さん自身が言葉としての、伝達手段としての音楽を強く意識してる人なんだろうな、と、番組を見て思った。
こういうピアニストにありがちな、とんちんかんな解釈や変な物語のこじつけがなく、ごくまっとうに、自然に、音楽の中の言葉を聞き取って、それを自在に、即興的に、その「場」にふさわしい形で操れる人、という印象を受けた。
だからこそあのようなパフォーマンスができたんだろう。
この音源はCDにおさまって「固定」されてしまったわけだけど、また来年以降、新しいプロで新しいセッションが見られたらいいなと、贅沢な期待をしている。